しゅわしゅわ

おいしーね、

いつかあの日を

一緒に暮らしている猫がお腹を見せてくれる時、晩御飯を食べる家族の背中を寝ぼけながら見る時、推しを見ている時、膝に子どもが乗っている時、エトセトラetc…

毎日の中で「いつかこの日を愛しかったと思うんだろうな」の言葉がよく頭に浮かぶ。

何かで見た言葉なのか、ふと浮かんでそのまま使っているのか、思い出せない。いつからなのかも思い出せない。記憶力が残念なのは幼少期からだけど。

数年前の辛かったことがあった時期でさえ、推しが関係している方面に対しては「たのしかったな」「いとしい日々だったな」とつらつら思い出を辿れる部分が増えてきた。

つまりそういうことだ、今のこのぼんやりとしたモヤモヤもいつかは「愛しかった」記憶になるのである。行けない現場があるとすぐこうなるのだ、あーあ、まったくヲタクというやつは。

ビールを飲む。ため息をついてみるけど、やっぱりまだ慣れない。慣れたいけど、慣れたくもなく、難しい。時間に頼るしかない。

張り切って買ったハイヒールが痛くて仕方なかったこと、近くで見る推しがもっとキラキラしていたこと。

遠くの席から見た推しと一瞬目があった気がしたこと、友達と惑星の飴玉をゲーセンで取ったこと。

推しが目を閉じた瞬間に風が吹いたあの日の夕暮れ、焼肉の気分を味わった後の新幹線での爆睡。

握手会でうっかりミスってしまったこと、初めましての笑顔、掌のぬくもり。

初めての観劇での立見席、後ろからあなたが駆けて行った時の風。

 

ぜんぶぜんぶ、ぜーんぶ、多分、きっと

 

 

 

 

 

いつか「愛しかった」と、

思い出になっていくのだ。

いまも「愛しかった」と、こんなに、おもうので。

ちゃぷちゃぷ

「表面張力」と言う言葉が頭に浮かんでいる。

同時に某マンガの絵も頭に浮かぶ。

なみなみと入った紅茶のカップ、指でつんと触れると少し溢れて、でもまたすぐにカップの中はいっぱいになってしまう、そんな感じ。

溢れても溢れてもいっぱいになるので、自分も誰かもつつくけど、なかなか無くなってはくれない。

でも、今日が終われば溢れなくなるので、したくもない贅沢、カップを気まぐれに突いたりスプーンを突っ込んだりしてぼんやりしている。

紅茶の表面にうつる今日の私、あーあ、可愛いなぁ。

アイシャドウも睫毛もいい感じよ。

もっと可愛くなるよ、きっと。

だってこれからたくさん推しの現場に行くのだ。

世界でいちばん素敵な推しを観に行くのだ。

かっこいいなぁ、推しの人。

ジョッキを掴んでビールを飲む。

あーあ、かなしーや、今日だけ、今日だけ。

回ってほしい

アルコールが回ってくれなくて困っている。

早く寝てどうにかしたいのに、大変困っている。

いつもいつも私のそばにいて、薬で引き剥がしている眠気が今は来てくれない。長年の付き合いがあるのに、そこら辺の空気は読んでくれないから「あぁ、私の眠気なだけある」とも思うけど、困る。

私は早く寝たいのだ。

本当は仕事があるから寝ちゃ駄目だけど寝たいのだ。

非常事態宣言があるから県外に出ては行けないらしい。会食しなくてもマクスを外さなくてもイベント時間以外はホテルに引きこもっても駄目らしい。

昨年から今まで、何回経験しても私は平気にならなくて、その度しんどくて、でも後々「そういう感情持ってたんだなぁ、良かったね」と思ったりして、でも慣れない。

今回はなんだか今まで以上に納得できなくて困る。

手洗いうがいは当たり前、消毒のためアルコールやウェットシート、ビニール袋も持ち歩く。ウェットシートはベンザルコニウムも配合、アルコール率が高いものを選んで、駅に乗り換える度、気になる度手を洗って、フォロワーとも会話しないようにして、通過する場所が少ないように、ファブリーズかリセッシュかどっちがいいか調べて、ハイター薄めたものを持ち歩こうかなとか、それでも駄目な訳で、私は社会人で専門職な訳で、推しさんをイベントで観たいな、それだけなんだけど、だめなんだな

ぐるぐる考えている。意味なんてないんだろうけど、急いでても、仕事してても、ふ、と浮かんでくる。

そのことに対して「そんなしょうもないこと」と冷たい目の自分が横から見てるような、そんな感じ。「そんなことに対して色々考えてるなんて馬鹿みたい。社会人として最低」ともう一人。

でも、「好きじゃないよね」「いいよね、部屋にいるだけで仕事してる人扱いしてもらえるもんね」とかの言葉をうけてべこべこだった私がまた頑張れるのは、周りの力が根底にあると分かってても、きっかけに推しがいてくれるからなんだよ、しょうもないって思えないよと思う私がいて、それもどうしようもない、こまる。

買い物に行かなくたって、外に出なくたって、平気だけど、推しの現場はいきたい、かなしい、なんでかなぁ。

ぐるぐる、ぐるぐると考えている。

答えなんか出ないんだけど。

予定

「遠征」。推し活を始めた当初は遠い言葉だった。

なんか気付けば1日に3部あれば全部、観劇行くならマチソワ入る、5公演は入りたいから入る、そんなヲタクになっていた。本当はもっと入りたい。もっと推しを見たいなと思っているけど、お金が足りない。転職したけど足りないし、バイトもするけど少ないから当たり前に足りないし。夜行バスも乗るけど、仕事に支障がない程度と思って3列にするし、行けるなら新幹線にも乗る。その分行けなくなるのに。推しを見れなくなるのに。

お金だけじゃなかった。私のスケジュール、生きてきた中で当たり前に入ってきた予定は推しだけじゃない。結局推しじゃない予定を選んでるのは私だから誰も責められない。当たり前だけど。それで泣いたり落ち込んだりするのも嘘じゃないのだ。けれど、推し以外を選んでるのは私だから、余計へこむ。

昔から1つのことに必死になれる人とかお話が大好きだった。私は選べないし、そもそもそこまで感情の振り幅がない。推しに出会ってこんなに嬉しくなって、幸せになって、友達と同じ気持ちを共有できる楽しさを知って、嫉妬とかかっこ悪い感情も持てるんだって、たくさん勉強になったけど、こんなに大好きだと思ってるけど、やっぱり私は推し以外の予定を取ってしまう。

反対されても、行きたかった、でも選んでるのは自分で、結局推しじゃない予定を取った。こうやって書いて自分に酔って勝手に慰めてる自分は、嫌いだなぁと思う。でもとりあえずまた職場でニコニコするためにはこれも必要な作業だからって言い訳しながら、ぽちぽちと吐き出している。

ショックがいきなりはっけよい


推しが喋ってくれてる、そのウェブラジオが最終回を迎えるらしい。
自分でもここまでとは思わなかったけど、ショックすぎてはてなブログに登録することにした。何か気を紛らわしたかったから、登録してみた。(とうろまで打ったら当落って出た、今はやめろ)

私は、推しが出ているラジオや歌が好きだ。
いや推しが出ているもの、発信してくれているものは全部大好きなんだけど。現場で得られるものは現場にしかないし、それはもうすごい。間違いない。

なのにどうしてラジオや歌が好きかって言うと何回でも、どこでもいつでも聞けるから。めげて、へこんで、でも帰ったら推しの声が聞ける。それに何回救われたか分からない。「明日からがんばろ」そんな気持ちを沢山もらった。その日の出来事を噛み砕いて自分のものにしなきゃいけないのに、うまく咀嚼できない時。推しの声を聞くと、笑って、そのことを一度頭から放り出せた。だから乗り越えれたことが何回もある。


ありがと、そうだね、始まるなら終わる、そうだ。物事には終わりがあるものなのだ。でもいやなのだ、頭と心はすぐに喧嘩する。「僕らが終わるわけじゃないからね」、いつだって推しの周りの言葉はやさしい。

最終回って分かるのが、今日でよかった。現場がある日なら、なんか多分、だめだった。ありがとう、番組、スタッフの皆さま。「番組が終わる」そのことにこんなにショックを受ける日が来るなんて思わなかった。新しく得る経験の1つだなぁと思う。


こうしてまた、推しのお陰で学ぶ。
現場の記憶を美化して手繰って、あなたの録音されてる声や映像に触れて、SNSをなぞって。現場を楽しみにすることを糧にして、友達にも話したりして(有難い)、このことを乗り越えていく。


でも、やっぱり寂しいや。
今だけ。
今だけだけど。